2018年8月11日付 さくら新聞連載
「オラ(Hola)!」
親しみのわくその声を聞いて「もう6時か」と気づく。煌々と光る画面から顔を上げると、しわくちゃな顔をした60手前くらいの掃除のオジさんがにやっと笑っている。これからまだ残業が待ち受けている私に、いつもスペイン語で話しかけて来る人だ。
職場のゴミ箱を毎日空にしてくれるので挨拶をしていたら、いつの間にかそのたびにスペイン語会話をすることになってしまった。「また残業だ」とこぼすと彼は必ず、「Mucho trabajo, mucho dinero」つまり「仕事が沢山あるということは、お金も沢山入ってくるってことだ」と言う。私はすかさず「そんなに甘くはない」と片言のスペイン語で言い返すのだが、彼は真剣に「そんなことはない」と言う。練習も兼ねて無駄に押し問答していると、彼はおもむろにポケットから、折りたたんだペイチェックを取り出した。
17ドル。2週間、毎日最低でも2時間程度、つまり20時間かけて、11階分あるオフィスのゴミを回収した労働に対する給与が、たったの17ドル。当然これは2つ目の仕事だ。この収入で、このワシントンで生きていけるわけがない。その10倍の170ドルだって足りないし、17ドルでも足しになるとはどういうことだろう。私はそれ以上何もいえなくなった。
ワシントンDCには、実は彼のようなundocumented immigrant(未登録移民)はたくさんいる。実にその数、2万5,000人(Pew Research Center、2014年)。人口約65万人のうちの約4%、大まかに、DCですれ違う人の25人に1人は未登録移民だ(2014年)。国際色豊かなワシントンには、私たち日本人を含め、米国市民でない外国人(永住権保持者から未登録移民までを含む)は9.5万人が居住し、DC人口の約15%弱を占める(US Census, 2015)。そうした外国からの移住者の4人に一人は、未登録ということになる。
ご承知の通り、目下トランプ政権は、オバマ政権の移民政策を翻して、国境を超えて入ってくる移民の家族を引き離し、より厳しい政策をとっている。その政策の是非についての議論は他に譲るが、そのホワイトハウスがあるDCは、それに真っ向から対峙する政策をとる、サンクチュアリシティ(聖域都市)を展開している。まさに連邦制による複雑さと面白さがここにある。
ワシントンDCの警察は、未登録移民の国外追放を実行する連邦政府には協力しないように指示されているため、未登録であるからといった理由で彼らを追いかけ回したりはしない。それどころか、DC政府は2014年以降、手続きは普通よりはるかに面倒だが、未登録移民に対して特定の条件つきの運転免許証を提供している。また未登録移民の場合、最貧困でもメディケイドなどの連邦政府による医療保険を利用することはできないが、DCには移民のステータスを問わずに提供する貧困層向けの大人や子供を対象とした医療保険プログラムがある。
未登録移民の子供に対する医療保険を提供しているのは、全米でもワシントンDCと6つの州しかない。さらに、2017年にはボウザー市長が、未登録移民を支援する組織や法律事務所に対して50万ドルを投じることを発表した。
そうした背景には、未登録移民がその安すぎる賃金で、DC経済を支えている部分は少なからずあるだろう。未登録の移民に限定した統計を見つけるのは難しいが、全米の統計では、大工、家政婦、タクシーの運転手、シェフ、料理人、チャイルドケアワーカー、掃除夫、建設労働者、サーバー各職種の半数から8割を移民が担っている(Indeed, 2017)。生活する上で、どれもお世話になる人たちだ。
ワシントンDCは、連邦議会の議員や国際機関で働く人たち、米国政府の高官や国立研究所の研究者たちなど、華々しいキャリアと素晴らしい学歴をもつ人たちがしのぎを削り、そういう人たちとのネットワーキングが物を言う。だけれど、ネットワーキングのためにはレストランは欠かせない。オフィスで掃除夫達がゴミを掃除しなければ、大工が安くで炎天下で家を建ててペンキを塗ってくれなければ、ワシントンDCの生活はもっと不自由になるだろう。
華やかな世界の影で、私たちの生活を支えている、影の立役者たち。もし余裕がある時は、少しだけ多めにチップを渡したら、それは思っている以上に誰かの助けになるかもしれない。