2018年9月8日付 さくら新聞掲載
楽しかった夏休みももう終わり。今年は、数年ぶりに日本の夏を堪能する機会に恵まれた。京都の湯葉料理に、季節ものののど黒の塩焼きと日本酒。 緑燃ゆる龍安寺の境内と嵐山の竹林。ゴミのない清潔な街並み。そしてなんと言っても丁寧で物腰柔らかな笑顔のサービス。母国ながら、改めてこの美味しく美しい国に感激し、アメリカに戻るのがためらわれた程。
それに比べると、やはりアメリカのサービスは至ってカジュアル。日本のような、徹底して訓練された礼儀正しさを日常で受けるサービスの中で感じることはあまりない。至れり尽くせりの日本から戻ってきた時に感じるこのギャップに、改めて、吹きすさぶ荒野を切り開く開拓者の大地に戻ってきたのだと武者震いする。
とはいえ、アメリカにはアメリカの良さがある。帰国中に、新しいクレジットカードの自動引き落とし設定がうまくいかず、うっかり支払い期限を過ぎてしまった。しかしカード会社に電話して事情を説明したところ、カスタマーサービスは、証拠も求めず、支払いが遅れたことへのチャージをいとも簡単にその場で取り下げてくれた。また先日バス停に向かって歩いていたら、後ろからバスが来てしまい、慌てて走り出したのだが、間に合わない。しかしバスは道の途中で止まってドアを開けてくれた。運転手のおばちゃんは、「この距離は絶対に無理だったわよ!」と豪快に笑っていた。
実際のところ、日本ではサービスは丁寧だが、「ルールは守るもの」という考え方が強いためか、特に大きな組織の場合、あまりマニュアルを超えた対応を期待できないところが玉に瑕でもある。一方のアメリカでは、ルールはガイドラインとして使いつつも、状況に合わせてそれぞれが判断して対応し、必要ならルール変更することも視野に入れて物事が動いている(これについては『ずるい!? なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか (ディスカヴァー携書)』がとてもよく説明している)。そして客と直接やりとりするスタッフには、それなりの裁量を与えられているところが大きな違いだ。
思い返してみると、アメリカに来たばかりの頃は、知らず知らずのうちに日本で身につけた「お客様は神様」な態度を持ち込んで、失敗することが多かった。なぜなら、アメリカではお客様は神様でも殿様でもなく、「サービスを必要とする人」だからだ。ここでは「何かしてほしい人」がいて、「何かしてくれる人」がそこにおり、「何かしてもらったら、してもらった人がしてくれた人にその対価を支払う」関係があるだけだ。だから良いサービスを受けたければ、ちょっとした駆け引き、一工夫が必要である。
さてどうするか。私が尊敬する先輩から学んだのは、「相手も自分も普通の一個人である」と視点に立って動いてみることだった。例えば、サービスを提供してくれている人の名前を覚える(つまり、相手を人として認識する)、相手を気遣う(最初にHow are you? How’s it going?と聞く)、何かしてくれたら相手の名前を呼びつつお礼を言う、など。その先輩は日本人だが、彼の道ゆくところ、このアメリカで、ホテルのドアマンから辣腕の政治家までみんな味方につけてしまう。一度味方につけると、そのフレンドリーさを発揮して、色々とプラスでサービスしてくれるアメリカ人もいる。
日本で店員さんに「どうも佐藤さん、調子はどうですか?」などと聞いたら変な人になってしまうが、この荒野では有効なコミュニケーション戦術。さて、アメリカに長年お住いの猛者の皆様方はどのような術をお持ちだろうか。
さくら新聞より再掲